2015年04月19日

糖尿マネージャーとましゅまろアイドル

「マネージャーさんはコーヒーでしたよね。ミルクも入れるんでしたっけ?」
「ああ、うん。そうだけど、三村さんは座っててよ。アイドルなんでしょ」
「でも、台所に立ってる方が落ち着くから……」
「君にコーヒー煎れさせたなんて知れたら、美城から何言われるか分かったもんじゃ無い。三村さんはミルクだったね」
「あ、はい。…じゃあ、お言葉に甘えて」
えへへ、と笑いながら彼女は席に戻ると、鞄から取り出した包みを広げる。安物のパイプ机に広がったクッキーは、色とりどりの花のようだ。ただ、お手製のクッキーを満足げに眺める様は、お預けを食らっているチャウチャウに見えなくは無い。パーティションで区切っただけの台所からそんな様子をみていると、ふと目が合って彼女がはにかむ。
「先に食べてていいよ」
「いえ、待ってます。マネージャーさんと一緒の方が美味しいですから」
ブラインドから漏れる西日で染まるくたびれた小さな事務所に、パンジーのような明るい笑顔がほころんだ。

彼女、三村かな子を預かったのは、美城プロダクションのとある案件を片付けたのがきっかけだった。業界大手のプロダクションが零細個人コンサルタントに所属アイドルを預けるには、何か訳があるのだろう。が、こちらにしてみれば数ヶ月とはいえレギュラーの仕事がある事には代えがたく、仕事先まで付き添えない彼女のプロデューサーの代わりに、マネージャーとして同行する日々が続いている。

「それじゃあ、頂きます」
「たくさんどうぞ」
ふむ、とクッキーを一つつまみ上げて、一囓り。鼻腔に広がる芳醇なバターの香り。だがそのクッキーは、初顔合わせで一つだけ食べたあの時の甘さには及ばない。顔を上げると、彼女は私をのぞき込むように見つめていた。
「甘さ抑えたの?」
「マネージャーさん、食事制限してるって言ってたから」
「ありがとう。これならもう少し食べられそうだ」
美味しいよと言うと、嬉しそうに彼女もクッキーを一つほおばる。目尻が下がって、やわらかそうな頬が口角と一緒に上がる。とろけそうな笑顔にしばし見惚れて、私も思い出したようにクッキーの残りをほおばる。絶妙なバターの塩加減がほのかな甘みを引き立てている。噛みしめていると小麦粉本来の甘さが奥歯に広がった。
「うん、美味しい」
「ありがとうございますっ」
「これだったら今日はブラックにするんじゃなかったな」
「……あ、だったら私のミルクと半分こしませんか?」
「いいの? コーヒーは苦手だったよね」
「マネージャーさんがいつも美味しそうに飲んでるから、美味しいのかなって」
どうですか?と彼女は首をかしげる。三村さんの仕草に頬が緩み頷こうとした刹那。ふいに、甘い歌声が流れ始めた。

―― あと少し、あたしの成長を待って。

私は、この歌声の主を知っている。いやこの声の主を知らない人間の方が、今は少ない。だが、甘いウィスパー気味の高い声が彼女本来のキーでは無い事を知る人間は多くは無い筈だ。私は、有線から流れるBGMに耳を傾ける。

―― 今度遭う時はコートも要らないと、そんなに普通に云えちゃうのが理解らない。

「水瀬伊織さんですよね」
「うん」
「素敵な声ですよね」
「うん」
「好きなんですか?」
暫し空を見ていた事に気づいて、三村さんに視線を戻す。彼女もスピーカーの方にやっていた視線を戻した。香ばしいコーヒーの香り漂う空間。鼻孔に残るバターの香り。

―― あなたが此処に居る約束など一つも交わして居ない。

「そうだね。彼女の、最初のファンだよ」
なんら感情を込めずに事実だけを伝えたつもりだったが、三村さんはぱちくりさせた後、その大きな目を細める。わずかに下がった眉尻。彼女に何か察せられたのだろうかと気恥ずかしくもなったが、765プロで過ごしたあの日々は隠しきれるものでは無く。

三村さんが手際よく、マグカップに私のコーヒーを注いでいく。ミルクの白が、茶色に染まっていく。マグカップが満ちると、今度は私のコーヒーカップに彼女のミルクが注がれて、コーヒーの褐色が白く染まった。
「三村さん、砂糖は要る?」
「いいえ。私も、ダイエットしないと怒られちゃいますから」
「…そうだね」
すこし恥ずかしそうに笑う彼女につられて、思わず笑みがこぼれる。いつしか甘い歌声は去り、4打ち電子音鳴り響く流行りのJPOPが流れ始める。2人でカップを傾けて飲んだカフェオレはほろ苦く、口に残っていた甘さを流し去る。
「私もあんな風に歌えたらなぁ」
「あんな風って、水瀬伊織みたいに?」
「はい。水瀬さんみたいに、聞いた人を甘い気分にさせられたらなぁって」
「……三村さんだったら出来るよ」
「本当ですか? ありがとうございますっ」
「なんせ、こんな美味しいお菓子作れるんだ。もう一つ食べて良い?」
「はいっ。召し上がれ」
posted by tlo at 00:00| ある日の風景的な何か